こんにちは。咲音(@jiyuukosodate)です。
妊娠37週4日、新しい家族を迎える準備も万端。
赤ちゃんグッズも買い揃え、あとは出産を待つばかりの日々でした。
ところが、思いもよらず死産となり、天国から地獄へ。
なんで自分だけが…という思いでいっぱいでした。
この経験を記事にすることで、流産や死産を経験した方と共感できることがあれば幸いです。
破水したと思ったら、大量出血!!
夜中12時、就寝後10分、「パンッ」という音と共に流れ出る感覚。
破水したと思い、咄嗟にスマホを持って、トイレへ。
電気をつけるとパジャマは血だらけ、トイレにも便器いっぱいの血。
どんどん血が流れ出てきてパニックに。
全身が震えて、電話を上手くかけられず。
なんとか産院に電話をかけて出血量を伝えるも「どれくらいで来れますか?」
救急車の方が良いのではないかと自分なりに思ったものの、産院の指示に従い、震える手で夫に電話。
仕事からすぐに帰ってくるよう伝えたものの、血だらけのトイレに息子が起きてきて、ママだっこというジェスチャーで号泣。
夫が帰って来るまで、震えと息子が入らないようにするのに必死。
夫が帰ってきてから、入院セットを持って車に乗り込みました。
まだ出血してるのがわかる状態でしたが、胎動があり、赤ちゃんは生きていると安心していました。
まさか、これが最期の胎動になるとは…
産院(個人病院)の対応
産院では出血が凄く、NSTでは心拍もとれず、エコーをみながら先生が慌てた様子で酸素10リットルを指示。
息子が隣で「ママ」と言ってトントンと肩を叩いて励ましてくれていました。
そして、「赤ちゃんの心拍が50しかありません。普通150ぐらいなので、とても厳しいです。」
「総合病院へ行きますか?ここでは帝王切開できません。」
「出すだけならここでもできます。」
こんなような説明を先生がしました。
私も夫もどうしていいかわからず、
「取り敢えず総合病院へ行きましょう。」
最後は先生が決めました。
頭の中は呆然として何も考えられず、救急車の中で何度も先生に「お腹はいたくないですか?」と聞かれて「痛くないです。」と答えていたのは覚えています。
あれほど順調で、もう出てくるだけと言われていたのに、なんでこんなことになったのか。
次の検診の8時間前、もう少しで検診だったのに、そこで何かの異常がわかれば救えたのに。
産院に行かずに救急車を呼んでいたら救えたかもしれない。
妊娠中期に何度も出血した時にしっかり診てくれたら、こんなことにならなかったのではないか。
個人病院への不信感はつきません。
総合病院へ搬送

救急車が総合病院につき、すぐエコーをしましたが、赤ちゃんの心拍は無くなっていました。
「残念ながら心拍は確認できません。今は夜なので、明日の朝陣痛促進剤を入れて出産しましょう。」
「なぜ出血しているかは、産んでみないとわかりません。産んでもわからないこともあります。」
私は号泣。
なぜ、こんなに試練ばかり続くのだろう。
幸せな未来を思い浮かべていたのに、一瞬で地獄に突き落とされた感覚。
でも、まだ赤ちゃんはお腹の中にいるし、もしかしたら産んだら生きてるかもしれない。
帯状疱疹も痒く、寝られない時間を過ごして、朝8時陣痛促進剤を飲んで陣痛開始。
耐えられない痛みに叫びまくり、ナースコールを押しまくりました。
看護師さんには「痛みに弱いですか?、まだ4cmしか子宮口開いていませんよ」と言われる始末。
4時間半後、赤ちゃんが産まれました。
産声のないお産。
赤ちゃんはとても静かに産まれ、私の胸に抱かれました。
とても小さくて、可愛い子。
「ごめんね、ごめんね」赤ちゃんを抱きながらその言葉が自然と出てきました。
夫が呼ばれ、胎盤の説明を受けいる間、赤ちゃんは私から離れて連れていかれてしまいました。
処置が終わり、病室に運ばれた後、じっとしていられず、関係各所に死産を報告。
まだ死産したことが夢のようでした。
このとき、報告しておいて良かったと今は思います。
看護師さんが来て「赤ちゃんに会いますか?」と聞いてきました。
思わず「会えるんですか?」ときくと「もちろんです。」と。
夫は躊躇っていましたが、私は会いたくて仕方なかったので、部屋に連れてきてもらいました。
顔は出血したので青くなっていましたが、とても小さくてかわいい赤ちゃん。
涙が出てきてどうしようもなかったのですが、とても愛おしく感じました。
出血は臍帯の卵膜付着、破水と同時にへその緒が切れて、赤ちゃんは天に帰ってしまいました。
先生には、「事故みたいなもの、もし助かっても障害が残った可能性が高い。どうしようもないこと。事前に発見するのも難しい。」と説明を受けました。
総合病院の看護師さん達は我が子をキチンと1人の赤ちゃんとして接してくれました。
担当の先生も退院日には私の精神状況などを気にして私服で部屋に来てくれました。
退院までの3日間、赤ちゃんとずっと一緒に過ごせて幸せでした。
手をつないで3人で一緒に寝ると、不思議なことにずっと不眠だったのに1時間以上グッスリ。
抱っこしたり、おっぱいあげたり、お風呂に入れたり。
夫は役所で手続きしたり、棺や骨壺を探したり、花を探したり、あまりゆっくり過ごせませんでした。
赤ちゃんの火葬は退院日。
退院日にみんなで納棺、息子も妹を嬉しそうにナデナデしていて、とても申し訳ない気持ちに。
棺には初乳とお菓子、手紙を入れました。
かわいい我が子を火葬
退院した足で火葬場に。
私のせいでみんなが不幸になってしまった…
張り裂けそうな気持ちで火葬場に行き、我が子との最期のお別れをしました。
このとき、棺と一緒に自分も入っていきたい衝動にかられました。
私も一緒に燃やして欲しい、そんな想いでした。
そして、我が子の姿形がなくなってしまうことが、こんなに苦しいものかと、死産してから一番泣きました。
つらく苦しい産後休暇
それから後は、両親がいない私は義実家へ。
「無理したの」、「忘れな」のような心ない言葉を受けながら、辛く苦しい2週間を過ごしました。
妊娠中期に何度か出血して産院を受診しても特に指摘されず、産院はとにかく健診を多く受けてもらうのに必死という感じ。
あの時しっかり胎盤まで見てもらっていたら…
他の産院だったら事前にわかって、帝王切開で助かったかもしれない…
訴えようかと思いました。
でも、夫の「訴えても赤ちゃんは戻ってこない、自分がつらくなるだけ。」との助言を受けて思い直しました。
過失を認めても、認めなくても、どっちにしろ赤ちゃんが返ってこなければ、納得することはできないはず。
自分がなぜ生き残ってしまったのか、つらくて、あのとき我が子と一緒に逝けたら寂しい想いをさせなくて済んだはず…
ずっとこんなことを考え、不眠、食欲もなく、音や味を感じなくなりました。
今になって、赤ちゃんと短いけど一緒に過ごせたこと、看護師さん達が1人の赤ちゃんとして接してくれたこと、担当の先生が親身だったこと、この点はとても支えになりました。
死産は私の人生の中で一番辛く、これまでの価値観を一変する出来事に違いありません。
まとめ
臨月である妊娠37週4日、臍帯の卵膜付着が原因で死産しました。
妊娠中期には何度も出血しましたが、個人病院の先生は詳しく診てもらえませんでした。
大量出血後、個人病院へ急ぎましたが、結局総合病院へ救急搬送され、総合病院で出産しました。
出産後、火葬までの短い時間、赤ちゃんとずっと一緒に過ごし、写真を撮ったり、沐浴したり、おっぱいをあげたりした事がかけがえのない思い出となっています。
死産したことは退院後、日に日に実感し、喪失感でいっぱいになりました。
担当の先生が親身で、看護師さんも一人の赤ちゃんとして接してくれたことは心の支えとなりました。
出産は命がけ、自分が信頼する先生やスタッフの元で出産できるのがベストですね。
そして、心が回復するにはとても時間がかかりそうです。
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